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ラララ進化論

馬のブログです

友達消滅サイクル

私は友達が少ない。

なぜだ。

なぜなのか。




理由はいっぱいある。しかし思いあたるサイクルの一つとしてこれがある。

これを世界に馴染んでいるみんなに見てほしいのだ。




〜友達消滅サイクル〜

①知り合う。

②どっか行ったり飯に行ったりして遊ぶ。

③仲が途絶えないようにこっちから遊びに誘う。

④あまりに向こうから誘ってもらえないので、もしかしたら迷惑なんじゃないかと疑心暗鬼になる。

⑤こっちから遊びに誘わなくなる。

⑥おしまい。



私はプロのぼっちであり、カラオケや映画だけでなく焼肉や寿司にも行けるようになった。すごい。

しかし、これはぼっちが好きなわけではない。生きていく上で必要であった適応なのだ。



できることなら友達を増やしたい。

大学での成功はもう既に諦めた。

しかし、人生はまだ続くので改善策がほしい。

実は思いあたる節として「人間として魅力がない」というものがあるが、この結論に至ったとき少し涙が出たのは秘密である。




人間関係は難しい。

私には正直、お手上げである。


最後にこんな自分と見捨てず、遊び続けてくれる数少ない友人に感謝の意を表したい。

オッピョッピョナメクジ

ブログを見てもらうためにはどうやら工夫が必要らしい。

自分の世界観をただ発信するだけでは人は見てくれない。

正直、このブログは自分の承認欲求を満たすことが目的なので見てもらえないと悲しいのだ。

なので今日はオッピョッピョナメクジの話をしようと思う。

オッピョッピョナメクジ(学名:Meghimatium oppyopypotum)はシベリアに生息する非常に珍しいヘンな生き物である。

私がこの生き物の存在を知ったのは確か中学生ぐらいの頃で、あのときの衝撃は半端なものではなかった。

主食はシベリアに生える苔のみであるというのも非常に興味深いが、彼らの生活で一番面白いのは「冬を凍りついてまったく動かずに過ごす」という点である。

ご存知の方も多いだろうがナメクジの体のほとんどは水分である。シベリアは寒い。何の対策もしなければ凍りつきそのまま死んでしまうだろう。

しかしこのナメクジは体液に「ウォッチャカ(現地の言葉で日本語訳は知らない)」という解氷成分を含んでいるため、死ぬ一歩手前で生き続けることができる。ウォッチャカの成分は今の科学でも解明されていないのは不思議である。

オッピョッピョナメクジは現地では愛されている生き物であり、ウォッチャカはロシアではおなじみのお酒ウォッカにも少量入れられているのだ。

「オッピョッピョ」という日本語ではふざけているように聞こえる名前も、おそらく現地では重要な意味を持っているのだろう。まったく、文化というのは不思議である。

私はこんな生き物が本当にいたらいいのになあと思ったりする。

他人の幸せは空の色

他人の幸せを本気で喜べる人はすごいと思う。

なぜそんなことができるのか、私には皆目見当がつかない。

これはおかしいのだろうか。



他人の幸不幸など天気のようなものである。

晴れの日もあれば、雨の日もある。

嫉妬はするだろうと問われるけれど、そんなの洗濯物を干しているときに雨が降ったようなもんである。



中学の先生にそう言ったら「お前はおかしい。悪い意味で」と辛辣な答え方をされたのは今でも記憶に残っている。

しかし本当に他人の幸せを喜んでいる人はいるのだろうか。

みんな他人に強要しているだけで、自分は喜ぶ振りをしているだけなんじゃないだろうか。


みんなが幸せを分かち合っているようで、実は自分の分の幸せを確保するのに躍起だったりする。

そんな社会に生きていることが時折寂しく思えるのである。

Joshikousei drive a car.

この前仮免試験があった。
結果は合格、順風満帆である。
しかし、そんなことはどうでもよい。
私はあれからある光景が脳裏に焼きついて離れないのだ……


技能試験をトップバッターで済ませた私は見てもいない学科教本をパラパラとめくっていた。
試験を受ける者は当然運転手と、それとは別に後部座席に座って他の受験者の運転に付き合う役割を果たさねばならない。
最初に試験を終えた私は、最終受験者の運転に同情しなければならなかった。
正直、煩わしいという思いが付きまとって離れなかった。
「次、あなたの番です」
運転を終え、戻ってきた女性が私に告げた。
私は教本を半開きにしたまま、寒空のもと試験場へ向かった。

私が乗ったのを確認すると、教官は試験の開始を運転手に伝える。
運転手の女性は緊張しているのか、肩に力が入っているようだった。
私は不快な視線を彼女に注がぬよう、窓の外へと目を移す。
「ウインカー、出し忘れてるよ」
「は、はい」
慣らし運転が始まってからも緊張の色は少しずつ濃くなっていく。
そんな彼女に視線を移すと、私はあることに気がついた。




彼女、高校の制服を着ている。


最初は些細な違和感だった。もうすぐ卒業式だという高校生が免許を取ろうとしていても、まったく不思議ではない。


しかし、しかしだ。
なぜ制服を着てきたんだ?


その日は休日、華の日曜日である。
実際高校生らしき受験者も皆、私服である。
そんな中、彼女は制服で来たのだ。
見目形も整った女の子である。私服の一着や二着、持っていてもおかしくない。


……これは反逆である。
成人の儀とも呼べる試験に幼若の証であるセーラー服で乗り込んでくるなど、国家に対する弑逆である。

そしてその場に私は立ち会っている。
こんな機会、この先の長い人生で再び巡りあえることなどないだろう。
私は湧き上がる興奮を抑え、彼女の不器用な戦いを見守る。
そして、私の言明できぬ思いはふと浮かんだ一文に全て宿った。



「Joshikousei drive a car.」


私は心でそう呟き、試験場を後にした。


driveに三単現のsを付け忘れたのに気がついたのはその2日後のことだった。

情報神・テレヴィジョン

ブログを始めてはや30秒ぐらいになる。

そして、気がついたことがある。



140字以上書けるの、すごく楽しい。



本題に入ろうと思う。

実は私の家族はとある宗教を信仰している。


情報神・テレヴィジョンを最高神とするテレビ教である。


テレビ教はとても変化の激しい宗教である。日夜、聖典の改訂に勤しみ、テレビ教信者に膨大な数の教えを説いているのだ。

我が家は父母の世代からテレビ教に入信し、必要以上の祈りを魔法の箱に捧げてきた。


ここから激しい非難を始めたいわけではない。

ただ、昔から一つ困っていることがある。

我が家は信心深すぎるが故に、その言葉を一言一句鵜呑みにしてしまうのだ。

テレヴィジョン様が「スポーツをする人間は優れている」と言えば私を運動部に投げ入れ、「チョコレートはニキビのもと」と言えば次の日から私はチョコレートを食べることを禁じられた。

今現在私が科学という宗教へと改宗し、そんなのデマだと言おうとも、私はチョコレートを制限され、冷蔵庫には忌々しい水素水のペットボトルが並んでいる。


私が一人暮らしの準備をしているとき、家族と一番揉めたのが「魔法の箱を買うか買わないか」というくだらないことだった。

私は土下座して「本当に要らない、無駄遣いはやめてくれ」と言おうにも、一人暮らしを始めた部屋には魔法の箱があった。



目下、私は家族を改宗させるための手段を検討中である。

声明のような何か

人間というのは何かと偉そうである。
そりゃ自分の意見には多かれ少なかれ自信というものが伴うのが常である。
私はそれを悪いことだとは思わない。

ただそこには「正しさ」という概念が介在している。
私はそれが大っ嫌いだ。
意見が刀なら、正しさは血のようなもの。時は情報戦国時代、電子の砂漠に飲み込まれた猛者たちは、返り血を求めて彷徨い歩く。
「正しさ」は世界を良くしたりするのに大事だと確か小学校の先生が言っていた。

しかし今の社会の「正しさ」とは何だろうか?
もし力のめちゃくちゃ強い奴がいて自分が正しいと主張する。そんな論理とはかけ離れた筋肉によって保証されたものが「正しさ」なのだろうか。
もし就職活動のとき、スケベそうな面接官が「おっぱいは正義だ」とか言い始めておっぱいの大きい女性ばかりに内定を出していたら、おっぱいのない私は帰って枕を濡らすしかないのだろうか。
思うに「正しさ」の中には正しさ以外の不純物がふんだんに盛り込まれている気がする。
私はそれが悲しいのだ。




で?

「だからどうした。そんなこと、とうの昔に気づいている。私を見くびらないでほしい!」という賢い方々が多いと思う。
申し訳ない。
私の声明はこうだ。



馬になりきってブログをします。

それだけ。
馬に「正しさ」はわからない。良くも悪くもわからない。
頑張って長く続けたいと思う。