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ラララ進化論

馬のブログです

不幸になる権利

「満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま」

 

 

最近の幸福は少し歪んでいる気がする。

これは昔から人類の心に根ざしていて、私がたまたま最近気がついただけなのかもしれない。

 

 

 

最初に書いた文章は「幸福」という言葉の辞書における定義である。

ここには「他人に認めてもらう」などという定義はどこにもない。

しかし最近は日々の自分の経験をSNSに投稿することが、あたかもその経験を幸せに昇華させる儀式のように行われている。

もちろん私もしている。意図的にしている。許してほしい。

 

 

 

幸せとは「満ち足りた」ものである。

他人に自慢する・SNSに投稿するなど、何らかの儀式をしなければ幸せになれないそれは、果たして本当に幸せなのだろうか。

そんなもの、クリームの入っていないクリームパンに等しい。

しかし裏を返せば、パソコンやスマートフォンの普及した現代は幸福が量産できる時代なのかもしれない。皆さんのお手元にあるそれは、紛うことなき「幸せ製造機」なのである。

私は自分の体験をSNSで共有できるのはとても良いことだと思う。

しかし、自分の体験を片っ端から情報化して幸せを気取る幸せ太り人間と、それを眺めて「自分には幸せな体験がない」と肩を落とし勝手に不幸になる幸せガリガリ人間が大量に生まれてしまうのは嘆かわしいことである。

 

 

 

誰かに認めてもらわないといけない幸せなどに価値はあるのだろうか。

むしろ誰に言わずとも輝きを放つ体験こそが幸せではなかろうか。

それは必ずしも金に物を言わせた体験でなくてもいい。

ただ空が晴れていたとか、虹が出ていたとか、宝くじで3億当たったとか。

そういうささやかな日常で良いのだと思う。

 

 

 

これは幸せのあり方を定義しようとした文ではない。

ただ、世間の皆さんが御高説のたまう幸福論のハードルを下げようと思って書いただけである。

他者に強要された幸せの定義に従わなければならないのなら、私は喜んで不幸になる権利を行使しよう。

 

 

 

……真面目なテーマは疲れるので次からはやめにしよう。

 

 

 

P.S. 「不幸になる権利」とはとある有名なSFの1フレーズである。何の作品か気づいた方がいれば嬉しいこと限りない。